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私たちのルーツ 1

こんな記事を見つけたといって、次兄から送られてきた文章です。
もしかしたら、我々の、遠~いルーツなのかもしれません。

でも、廣田亀治に兄弟はいましたが、本人は結婚しなかったそうなので、そのあたりはどのようになっているのか不明です。

なお、私の苗字は子どもたちも読めるよう「広田」と、略字を用いていますが、戸籍上は「廣田」です。




●廣田亀治


廣田亀治は天保10年(1839)6月5日、
出雲国能義郡荒島村(現在の島根県安来市荒島町)に
松江藩の郷蔵番廣田平助の次男として生まれた。

亀治は廣田家を継ぐことになっていた。
代々廣田家は荒島で百姓をしながら年貢米を
大切にしまっておく倉庫の番人をする郷蔵の番人を勤めていた。

亀治は郷蔵の仕事を手伝う一方、
二反八畝(28アール)ばかりの田んぼの仕事にも精を出していた。

当時、稲熱病といった稲の病で不作であった米に、亀治は
「どうして質の悪いお米ばかりなのだろう」
と考えるようになり、
明治に入って二反八畝のうちの八畝(8アール)を、試作田として品種改良に取り組んだ。

明治5年、病気にも強く、収穫量も多い稲の品種改良に成功した。
(いもち病にも強い)
新品種は地元農家の評判となり、
「亀治米」の名で呼ばれるようになる。

そして、
先の戦争前後の日本の食料不足をも支えた。
日本の稲作史に一時代を画す品種となった。

廣田亀治は農業の研究に没頭するため生涯を独身で過ごし、
明治29年(1896)10月、57歳で没した。

明治43年(1910)、亀治の死後、
農商大臣から稲の品種改良と、
広く行き渡ることに努めたことを称えて、賞状と銀杯が贈られた。


・・・時の政府に認められたのが、
今から106年前のことなんですね。

143年前(明治5年)に品種改良に成功した亀田米が、
その後多くの民のためとなり、
広く全国の飢饉や食糧難を支えることになるのです。

地元小学校では今、亀田米の栽培体験と給食を通して、
工夫の大切さ、食の大事さと喜びを学んでいるそうです。

後の世になって認められる彼を、いぶし銀のようだと讃える人もいますが、
脚色されたものではない、踊らされたものでもないからこそ、
現代にもその考えが生きているのです。
本物の強さがあるからです。

彼の人生に、金メダルを贈りたい!!

広田亀治、
すごい人が、ルーツにいたものです。



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